2006年08月30日

変革運動への失望と経済的繁栄A

しばらく更新が途絶えていました。
再び始めていきます。
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変革運動への失望と経済的繁栄A

それに加えて、日本の経済成長は多少のつまづきはあっても持続し、たしかにいちおう「経済大国」「ジャパンアズナンバーワン」になったのである。そうした、経済的繁栄のなかで、「変革しなくなって、結構みんな豊かにやっていけるじゃないか」という雰囲気が蔓延し、日本全体を覆っていた。それが、70から80年代の基本的状況だと思う。
それをもっとも象徴するのは、72年に国連では人間環境会議が開催され、「われわれは歴史の転換点に到達した。今やわれわれは世界中で、環境の影響に一層の思慮深い注意を払いながら、行動しなければならない」という「人間環境宣言」が採択されているとき、日本では同じ年の同じ月に、田中角栄通産相の「日本列島改造論」がぶち上げられていたことである。そしてやがて、10年余りが過ぎ、84年の意識調査では、日本人の90パーセントが「中流」だと感じるようになった。首都圏の地価の高騰や消費税の強行以降、最近の調査では、少し落ちたようだが・・・・。

現実といってもいろんな現実があり、目先自分の身のまわりで見えていることだけで考え、地球レベルの現実に目を向けなければ、結構気楽にやれたのが、それ以降の日本の状況だった。日本のレベルでも世界のレベルでも、周辺、深部で危機は進行している。それに目をつぶって、「とりあえず自分たちは豊かに楽しくやってきたし、今後もほぼこのままで行ける、行きたい」と思っているのが、日本の相当多数の国民の意識であり、それが体制を支えてきたのであろう。
posted by tetugaku at 12:35| Comment(44) | TrackBack(6) | 日本人の思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月25日

変革運動への失望と経済的繁栄@

変革運動への失望と経済的繁栄@

ところで、69年、東大安田講堂のバリケードの機動隊による強制撤去に象徴される学生運動の政治的鎮圧によって、日本の文化・思想状況は大きく変化した。
まず、体制とその意向を受けた諸大学の当局はほとんど例外なく、学生の問いかけに知によって答え説得することが出来ず、力で物理的に排除することによって問題を解決ではなく処理した。ここで日本の知の世界の根本的な退廃が始まったといって良いだろう。
そして、全共闘運動に加わった人の中には、闘争が終わると、外から見るとかなり安易に体制に妥協したとしか見えない「就職」をした人も少なくなかったようだ。またその後、全共闘世代は良質な部分さえも、長い間沈黙を続けた。何のために闘争をしたのか、それをどう持続するのかといった問いに対して、世代全体としてはほとんど答えてこなかった。全共闘もそれを支持した知識人たちも「体制否定と自己否定を同時に」というスローガンをどう実践するかという根本問題について停滞してしまったのだ。闘争の敗北による各個人の内面の傷や葛藤には同情すべきものがあるにしても、それを見ていた後の世代から「あの人たち結局何やったの。勝手に騒いじゃってさ」という目で見られたのは当然だろう。全共闘世代の挫折・沈黙が後の世代のシラケを誘発した面があることは否定できない。
 さらに、最も典型的には連合赤軍の浅間山荘事件、それに前後して頻発した内ゲバ事件などによって、新左翼もやはり自らの党派・権力を守るためにはどんな残酷なことでもやってしまう体質をなんら抜けていないことが明らかになった。もっと俗に言えば、「新左翼はこわい」という印象、それまでにもあった「暴力学生」のイメージからさらにエスカレートして「ヤクザみたい」という印象が出来てしまったのではないか。
 ここでソ連型、日本共産党型共産主義に対する失望に重ねて、今度は新左翼や学生運動への失望も広い範囲で起こったわけである。そこで、何が起こったかというと、変革運動への失望、「変革運動したって、しょせんダメだ」という感じが日本全体に広がったのだ。
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2006年08月24日

新左翼

新左翼

50年代から始まっていたソ連型共産主義への評価の分裂が、60年代半ば頃から決定的になり、構図はかなり大きく変わった。
終戦後、日本共産党はアメリカ軍を「解放軍」と見て、占領下での平和革命が可能だと考え、ついで世界の共産主義運動を指導するコミンフォルムにその路線を批判されると共産党内部が分裂し、主流派はいったんは過激な武装闘争の方針を取った。ところが、53年のスターリンの死で、国際共産主義の流れが変わり、ソ連がアメリカとの冷戦・平和共存という方向に向かうと、共産党はそれまでの武装闘争の方針を撤回した。ここでまず、党の指示に従って裏切られた学生の間に大きな党・幹部不信が起こった。
さらに56年、フルシチョフのスターリン批判でスターリン―ソ連の絶対視が揺らぎ、同年ソ連がハンガリーへ軍事介入を行い、日本共産党はそれを支持したが、そのあたりから、ソ連―日本共産党をスターリニズムとして批判し、「反帝国主義・反スターリニズム」というスローガンを持った新左翼が既成左翼から分離した。一枚岩的に一致した「これこそ唯一の正義」というイメージを持ったコミュニズムは存在しなくなったのである。
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実存主義

実存主義

それに対して、社会的な問題よりも個としての人間の姿を深く見つめ、個としていかに生きるかをとことん考えるという派もあった。そのなかには、ニーチェ以来の伝統を引き継いで、「神は死んだ」「人間が頼りに出来るような、同時に人間を縛るような、神のようなものは何もない」ことを前提に、いわばこの宇宙の中に意味なく投げ出されてしまい、どう生きたらいいのか、自分で決めるしかない、そういう状況におかれている自分の生き方が問題なのだ、といったサルトルを代表とする非宗教的な実存主義者がおり、また伝統的なキリスト教がいうような神話的なものではないが、やはりある種の超越者とか神は存在するし、体験できるというふうな、ヤスパースやマルセルのようなキリスト教寄りの実存主義者、キリスト教をそう解釈するティリッヒやブルトマンなどの実存主義的神学者もいたし、さらに<存在者>の根底に<存在>そのものを問うていったハイデッガー、虚無の徹底から絶対無の体験=悟りそして慈悲という方向を持った、仏教的・禅的な実存主義的哲学者がいた。
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マルクス主義

マルクス主義

そういう体制・大衆の思想が作り上げている日本のピラミッド構造に対して、「それは違う」といいつづけてきたのがマルクス主義だった。いうまでもないが、マルクス主義は、戦前から日本の天皇制と資本主義体制を批判し続けてきた。戦時中も、「国賊」と罵られ、多くの犠牲を出しながら、反戦を貫いた。そして戦後、マルクス主義・マルクス主義的ヒューマニズムは、自分がまだ収入とか財産とか地位とか名誉とかいった私的所有を築いておらず、それに対するこだわりもあまりない、そして感受性も新鮮で、社会の歪みに敏感なかなりの数の学生・知識人の心を捉えつづけた。たしかにコミュニズム――共産主義ではなく共同体主義と訳すべきだったのではないか――が本来持っている普遍的な連帯、共同体(コミューン)を求める志向は、人間の本質にふれている。
posted by tetugaku at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本人の思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本人の思想

皆が漠然と感じている問題にメスを入れ、問題点の発見と、その改善を試みていきます。
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体制 大衆の思想

まず、生産手段の私的所有制と科学技術を前提に、基本的にはこのままでやっていけると考え、進歩や繁栄の未来を信じている<体制・大衆の思想>があった。これは、いろいろヴァリエーションはあるが、政治的結論をどうするか、いざ投票となったら、結局、自民党に入れるという思想だと思えばいい。日本人の過半数以上は、1955年の保守合同・自民党結成以来89年の参議院での逆転まではずっと「保守安定政権」に票を投じ続けてきた。そういう意味でいえば、自民党を代表とするようなものの考え方が、日本の主流をなす思想だといってまちがいない。

建て前はヒューマニズム、本音・実際の日常は広い意味での身内主義と利益快楽主義、その底にはエゴイズムとニヒリズムが潜んでいる、ということになると思う。

「みんな人間は結局一人であり、死んだらそれまでであり、最後は自分のことしか考えていない。人間というものはそういうもので、それでけっこうやっていけるし、それはしかたのないことだ。しかし、それを全面的にむき出しにすると、世の中上手く行かないから、ある程度は抑えて、(身内だけは)またまた、なあなあとなかよくしながら、科学技術を進歩させ、経済をいっそう成長させて、みんなお互いにもうけて、一回しかない人生を楽しんでいこう。その場合、身内はもうけさせるけれども、身内でないものは儲からなくても、それはしょうがない、それにパイが大きくなれば、分け前も多くなるから、少々の不平等なんか問題ではなくなる・・・」といったところが、そうとう多数の日本人の本音の思想ではあるまいか。

 エゴイズムの問題性について、全然自覚していないか、あるいはたいしたことではないと思っているか、しかたないとあきらめているか、ニュアンスの差はあっても、ともかくエゴイズムを前提にした経済的繁栄志向、それを覆い隠す身内ヒューマニズム、軽薄な快楽主義、その底にある空恐ろしいまでのニヒリズムと退廃の組み合わせが、日本のいわば「国民の思想」「大衆の思想」ではないかと思われる。

 特に経済的繁栄志向は、基本的には明治以来で、「富国強兵」から日米安保体制下の「高度経済成長」そして「経済大国」まで敗戦をものともせず一貫として続いている。

(岡野守也)
posted by tetugaku at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本人の思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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