2006年08月24日

新左翼

新左翼

50年代から始まっていたソ連型共産主義への評価の分裂が、60年代半ば頃から決定的になり、構図はかなり大きく変わった。
終戦後、日本共産党はアメリカ軍を「解放軍」と見て、占領下での平和革命が可能だと考え、ついで世界の共産主義運動を指導するコミンフォルムにその路線を批判されると共産党内部が分裂し、主流派はいったんは過激な武装闘争の方針を取った。ところが、53年のスターリンの死で、国際共産主義の流れが変わり、ソ連がアメリカとの冷戦・平和共存という方向に向かうと、共産党はそれまでの武装闘争の方針を撤回した。ここでまず、党の指示に従って裏切られた学生の間に大きな党・幹部不信が起こった。
さらに56年、フルシチョフのスターリン批判でスターリン―ソ連の絶対視が揺らぎ、同年ソ連がハンガリーへ軍事介入を行い、日本共産党はそれを支持したが、そのあたりから、ソ連―日本共産党をスターリニズムとして批判し、「反帝国主義・反スターリニズム」というスローガンを持った新左翼が既成左翼から分離した。一枚岩的に一致した「これこそ唯一の正義」というイメージを持ったコミュニズムは存在しなくなったのである。
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実存主義

実存主義

それに対して、社会的な問題よりも個としての人間の姿を深く見つめ、個としていかに生きるかをとことん考えるという派もあった。そのなかには、ニーチェ以来の伝統を引き継いで、「神は死んだ」「人間が頼りに出来るような、同時に人間を縛るような、神のようなものは何もない」ことを前提に、いわばこの宇宙の中に意味なく投げ出されてしまい、どう生きたらいいのか、自分で決めるしかない、そういう状況におかれている自分の生き方が問題なのだ、といったサルトルを代表とする非宗教的な実存主義者がおり、また伝統的なキリスト教がいうような神話的なものではないが、やはりある種の超越者とか神は存在するし、体験できるというふうな、ヤスパースやマルセルのようなキリスト教寄りの実存主義者、キリスト教をそう解釈するティリッヒやブルトマンなどの実存主義的神学者もいたし、さらに<存在者>の根底に<存在>そのものを問うていったハイデッガー、虚無の徹底から絶対無の体験=悟りそして慈悲という方向を持った、仏教的・禅的な実存主義的哲学者がいた。
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マルクス主義

マルクス主義

そういう体制・大衆の思想が作り上げている日本のピラミッド構造に対して、「それは違う」といいつづけてきたのがマルクス主義だった。いうまでもないが、マルクス主義は、戦前から日本の天皇制と資本主義体制を批判し続けてきた。戦時中も、「国賊」と罵られ、多くの犠牲を出しながら、反戦を貫いた。そして戦後、マルクス主義・マルクス主義的ヒューマニズムは、自分がまだ収入とか財産とか地位とか名誉とかいった私的所有を築いておらず、それに対するこだわりもあまりない、そして感受性も新鮮で、社会の歪みに敏感なかなりの数の学生・知識人の心を捉えつづけた。たしかにコミュニズム――共産主義ではなく共同体主義と訳すべきだったのではないか――が本来持っている普遍的な連帯、共同体(コミューン)を求める志向は、人間の本質にふれている。
posted by tetugaku at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本人の思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本人の思想

皆が漠然と感じている問題にメスを入れ、問題点の発見と、その改善を試みていきます。
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体制 大衆の思想

まず、生産手段の私的所有制と科学技術を前提に、基本的にはこのままでやっていけると考え、進歩や繁栄の未来を信じている<体制・大衆の思想>があった。これは、いろいろヴァリエーションはあるが、政治的結論をどうするか、いざ投票となったら、結局、自民党に入れるという思想だと思えばいい。日本人の過半数以上は、1955年の保守合同・自民党結成以来89年の参議院での逆転まではずっと「保守安定政権」に票を投じ続けてきた。そういう意味でいえば、自民党を代表とするようなものの考え方が、日本の主流をなす思想だといってまちがいない。

建て前はヒューマニズム、本音・実際の日常は広い意味での身内主義と利益快楽主義、その底にはエゴイズムとニヒリズムが潜んでいる、ということになると思う。

「みんな人間は結局一人であり、死んだらそれまでであり、最後は自分のことしか考えていない。人間というものはそういうもので、それでけっこうやっていけるし、それはしかたのないことだ。しかし、それを全面的にむき出しにすると、世の中上手く行かないから、ある程度は抑えて、(身内だけは)またまた、なあなあとなかよくしながら、科学技術を進歩させ、経済をいっそう成長させて、みんなお互いにもうけて、一回しかない人生を楽しんでいこう。その場合、身内はもうけさせるけれども、身内でないものは儲からなくても、それはしょうがない、それにパイが大きくなれば、分け前も多くなるから、少々の不平等なんか問題ではなくなる・・・」といったところが、そうとう多数の日本人の本音の思想ではあるまいか。

 エゴイズムの問題性について、全然自覚していないか、あるいはたいしたことではないと思っているか、しかたないとあきらめているか、ニュアンスの差はあっても、ともかくエゴイズムを前提にした経済的繁栄志向、それを覆い隠す身内ヒューマニズム、軽薄な快楽主義、その底にある空恐ろしいまでのニヒリズムと退廃の組み合わせが、日本のいわば「国民の思想」「大衆の思想」ではないかと思われる。

 特に経済的繁栄志向は、基本的には明治以来で、「富国強兵」から日米安保体制下の「高度経済成長」そして「経済大国」まで敗戦をものともせず一貫として続いている。

(岡野守也)
posted by tetugaku at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本人の思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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